昭和42年 12月30日 朝
昨日、親教会から電話があっておりましたから、私お礼に出ました。それはあの、今度の除夜祭と元旦祭の、もうあんたんところも教会になったんだから、祝詞を奏唱しないかん。何の祝詞でも稽古せないかん。祝詞は作成しきるまいから、私が作っといてやる、書いといてやるから、取りに来いというて言うてございました。それが、まぁできあがったから取りに来いというんでございました。もう本当に親先生は大変達筆でございますから、もう本当に見事ですね。その作文というかね、その祝詞も大変美しい言葉で綴ってございますし、字もじつに綺麗な字、私が読みきらんもんですから、仮名使いがしてございます。本当に行き届いております。まぁ親心を感じます。ですから昨日から、下読みをさして頂いておる。そこで、元旦祭の、それから除夜祭の祝詞を御神殿にお供えしました。
これが形、形式だけであってはならない。内容もでなからなければなりませんから、お供えさして頂いて、下読みをさして頂いているわけでございますが、もう一つそれに、祓いの言葉というのがございます。これ、いつもの若先生がお祭り前に読む。それを読まして頂いたございますけれども。祓いの言葉ですね。その中に「紙垂のさや木のさやさやに、天津すがその清々しく、祓いたまえ清めいしめたまえと、畏み畏み申す」と。天津すがその清々しく。祓いたまえ、清めたまえということ。祓い清めるということ。これは私どもがご御神前に出らして頂きます時に、まぁいうなら斎戒沐浴して、御神殿に、いわゆる清々しい、清らかな気持ちで御神殿にでると、まぁこれが神道からきておる、一つの、まぁしきたりなのです。またそれは大変ありがたいことでもあり、気持ちの良いことでもあるのです。
ところが私どもが日々この生活さして頂くということは、事にあたるたびに日々に、祓いたまえ、清めたまえというわけにもいきません。天津すがその清々しうというわけにもまいりません。なぜかというと、お道でいう神様というのは、このご神前ここだけに、神鎮まります神様ではない。社に入ったら天地が闇になるとおっしゃる神様である。神に会いたいと思えば庭の口に出てみよ、空が神、下が神とおっしゃる神様である。ですから、そりゃなるほど、もう心がけは必要ですね。
私ども昔からあのお商売させて頂いておる時、口をゆすいで出ました。必ず手を洗って出ました。これが私の信心のさしてもらう心掛けだと思うんです。どこでご祈念をさしてもらうか分からない。そんな心掛けでございますよね。ですから口もゆすがしてもらう、手も清めさせてもらうわけですが。ならそれで、いっつもかっつも、その天津すがその清々しくというわけにはまいりません。どういう中にでも、私は天津すがその清々しくという、形、心の上にも頂けれる信心。いつでも神様に打ち向えれる信心。いつでも我と共にござる信心。というのはどういう信心を言うのであろうか。いっつもが羽織袴を着けて斎戒沐浴して、ご神前に出ているというようなわけにはまいりません。ですからお道で言う、例えばそういう信心生活というのは、どういう風にあったらよいだろうかと、私は思うのでございます。
昨日は朝の御理解に、皆さん御理解を聞いてくださったように、くちほどしもない。有言実行というて2,3日前に頂いた御理解は、頂いたけれども、有言実行が共のうてお道の信心だと。いわゆる言うておることは、まぁ言うなら偉そうなこと言うておるけれども、それが実行ができてない自分を気がついた時にです。もう無言実行。無言実行に移るしか他にはない。今日は無言実行で行こうと、いうような御理解でしたね。と言うのも、昨日御神飯がそうですね、時間で言うたら2分間位遅れました。私はご神前に出ておりましたけれど、まだ出ましたけれども、御神飯のお供えが出てなかった。それが10分遅れた御神飯をお供えいたしましても、1時間3時間遅くなしても、もう同じこと。もうそりゃ、1分間遅れてからでも同じこと。私にとっては。まぁ言うならば、もう昨日一日は神様に御神飯をお供えすることができなかった。そりゃ、お詫びのしるしに後から炊きなおしましたり、また、盛りなおしたりして、お供えをいたしましたけれども、もうそれでは取り返しのつかないこと。言うなら昨日1日は神様にお食事を捧げなかったも同様のことであるから、私も昨日1日断食させて頂いた。
夕べここの奉仕終わったので10時過ぎでしたから、10時半頃までぐらい色々話させて頂いて、これから昨日はとりわけ修行生の、最近、大変良い玉露の口が開いておりますから、毎晩それを楽しみにまぁ頂いております。昨日も、もうそれこそ心行くまでおいしいお茶を入れて、私と若先生と久富氏が3人でお茶を頂いたのでございます。断食さしとりますと言うても、そのお茶だけは頂いとりますから頂きました。そして、お茶を済まして、あちら帰られるのがもう12時半(?????)でございましたろう。昨日、久富先生が早く帰っておられましたから、送りをさしてもろうて、御祈念をさしてもろうて、それから休まして頂くつもりで寝間に入りましたら。もう家内が今日は、敬親会におばあちゃま達に、あの熱いおそばをご馳走したんですよ。何はなくとも、御そばを頂いたと言うて大変喜ばれたと。あなたが12時に行ったら、食事を(?????)かもしれんからというて、一人前そばをとっとりますと、こう言う。あーそんなら頂こうかと。
まぁここで断食なんかする人達がございます。5日も、6日も、1週間も。その人達はやりますから、1週間なら1週間終わりますと、(?????)すぐ食事になられるように、私いつも準備させるもんですから、(?????)といったら、いわば29日じゃない、30日になっとるということでございますね。それで、(????)と言ったら、あなたが食事されると言われるかもしれんから、おそばを一人前とっておると、こう。ほんなら頂こうか。なら、私寝巻きに替えとりましたけれども、食堂に行こうかと。いえ,まぁ、あなたここにおってくださいませ。寒いから、私が用意しときますというて、おそばを温めてきてくれました。お礼を申させて頂いておりましたらです。頂き終わってから、もうそれこそ(?????)で頂いております。
お礼をさして頂いておりましたら、2,3日前、博多人形のお供えを頂いております。もう可愛い可愛いその博多人形ですが、安来節ですね。やらの泥鰌すくいをやっているところの人形なんですよ。もう可愛らしい人形です。それを、ふっと目の前にくださるんですね。私そのことから考えたと、この神様はありがたい神様だなぁということです。天津すがその清々しく。もう私の心ん中には、それこそ夜食さして頂いて、布団の上で寝まで頂いても、私の心はいやがうえにも天津すがその清々しく。だから、ご神前に出て羽織袴着けとかなければ、天津すがその清々しくではない。いやそれは、ご神前に出ておっても心が濁り、心が汚れておったら天津すがその清々しくならんということ。寝間着姿ででも、寝間着(????)でも、お夜食さして頂きながらでも、心の上に清々しいありがたいものが頂けたら、それが天津すがその清々しくだ。
そして、皆さんそのことをこう思うて頂かなければなりません。よし12時になったらすぐ食べるぞと言うて、わざわざ12時まで起きとったというわけではありません。もうなんとなしに、自然の奏でてくださるそのリズムというか、その調子に乗っての(????)であります。さぁ時計と睨めっこしたじゃん、さぁ12時まで起きとってから何か食べようというのではない。久富さんの心行くまでのお茶の奉仕を受けさせて頂いて、送り出して帰ったのが帰られたのが12時。そこそこであった。お礼を済まさせて寝間に入ったらもう12時半であった。そこに家内が、一人前用意してありますよという、なら頂こうかという、このこの辺の私は調子だなと。いつもいわば、祓いたまえ清めたまえと言うて、斎戒沐浴するという、しておるということだけが、で口を濯いでおるということだけが、いわゆる清々しくではないということなのです。
ですからいかに私どもがです、例えて言うならば、なら今の安来節の泥鰌すくいのようなものであったかもしれません。それこそ、あれは汚れ踊りです。ほうかぶりをして、そして、まぁあらえっさっさで踊りだのです。踊る中にも色々あるんです。例えるならば、松の緑なら松の緑というような長唄あたりの、それこそ折り目正しい、きちっと袴の一つでも履かなければ、白足袋の一つも履かなければ、(???)を持たなければ踊りが踊れないと。という踊りもあります。例えそういう踊りを踊っておっても、リズムと合わなかったら、もうその踊りの値打ちはないということです。例えば(??????)。いわば三味線なり、太鼓なり、鼓があるというそれにきちっと合うてはじめて松の緑なのである。まぁ、松の緑だけがいわば踊りじゃないということ。踊りの中には泥鰌すくいもあるということ。いわゆる、あらえっさっさでリズムに合うた踊りの中にです、天津すがその清々しさというものを感じれるということが、信心だということ。そこにいかに成り行きというものが大事にされなければいけないか、またはその中にです、合間合間においては厳しい厳しい自己反省というものがなされて、昨日一日私の一日があったように。
かというてならここを10時に下がらせて頂いて、11時ごろからは繁雄さんの、もうあのとにかく壷一つが5万円というお茶なんですよ、私どもが今頂きよるとは。もうそれは、もう本当にどんな素人が頂いても、そりゃもう格別においしいお茶なんですよ。そういうお茶の奉仕を受けながらです、例えば、私が寝間で蕎麦を頂くまでの昨日一日というものがです、松の緑からちょうど泥鰌すくいに移っていくような感じがするじゃないですか。いかに成り行きと、いわば神様の働きと私の動きというものが、こう調子が合うていかなければならないかということ。いかに羽織袴を着けておっても。はくせん?を持ってご神前に出ておっても、あらえっさっさが横でありよったんでは、これは駄目だ。踊られん。形だけじゃないです信心は。安来節の時には安来節、松の緑の時には松の緑のそのリズムというものに合うて、私は生活さして頂く。
なるほどしてみると信心はです、なるほど難しいものではない、見やすいものだということが分かるでしょうが。いつも斎戒沐浴しておかなければならない。いつも、羽織袴を着けておかなければならない。というのではなくてです。そういう時もあらなければならない、けれどもこういう時も、やはり信心だということ。そこに私は、私どもがいつも祓いをうけておる、清々しさというものを感じさして頂きながら、日々の信心生活というものが楽しうおかげが受けられる。ということになるのでございます。そこには不自然さというものが一つもない。そこにあくまでも、いわゆる本当の神風というかね、それこそ神様の祓うてくださる、紙垂のさやぎのさやさやに、私どもの心をいやがうえにも清める、さして清めてくださる。そこに私どもの生活がある。そこに私どものありがたい、勿体無いという生活がある。昨日一日のことの中からです。なるほど私が休まして頂く時に、頂かしてもらう、泥鰌すくいのようなことでございましょう。寝間の布団の上でお蕎麦でも頂いておる姿は、確かにそうでございましょうけれども、確かにそれでも私の心は清々しく、やはり神様のお計らい。神様のお働きのありがたさをしみじみ感じさせて頂きながら、真につくことができるというおかげを頂いていかなければならんと思うのでございます。どうぞ
佐田 與一郎